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2008.12.14

yield 後編

母親は小さな林檎畑の中に入り、細い木の枝をかき分け奥に進んでいった。季節は秋。あらゆる木の実草の実が実り、動物たちの冬仕度を大いに助ける時期だ。この林檎畑にも平等に秋は訪れ、悪天候や痩せた土地にも関わらず、枝には艶やかな真っ赤な果実が幾つも下がっていた。しかし母親がここに来たのは林檎をもぎとる為ではない。林檎だけではなく、向こうの畑の葡萄や梨も、熟れた香りを風に乗せ、収穫の時を告げていたが、母親にはそれより先にしなくてはならない仕事があった。 今朝目を覚ましたら、娘の姿が見えなくなっていたのだ。夫の様子もおかしかった。昨夜自分が寝ている間に何があったか、それで察しがついた。彼女は何も言わずに家を飛び出し、娘を探しに出た。 母親が娘が居そうなところで一番最初に思い付いたのが、この林檎畑だった。その昔、娘が産まれたばかりの頃、植えた林檎の木達だ。娘が一人で歩いて話せるようになった頃、ここは娘のお気に入りになった。ようやく林檎が実をつけるようになった時、娘はかなり大きくなっていた。身体だけではなく、その心も成長していた。最早彼女は無垢なままではなく、今ある幸せの哀しさ、希望の虚しさに気づいていたが、それでも娘はこの林檎畑だけはずっと好きだった。時々、仕事をさぼって娘はここに来ていたことも、母親は気付いていた。それが彼女が、娘の母親たる所以である。春は淡い色の花びらの下で、秋は赤い果実をかじりながら、枝の上で佇む娘の姿を、母親はよく知っている。母親は娘の名を呼びながら畑の真ん中を目指して歩いていく。
ふと、いつもと違う眩しさに母親は気づいた。一旦歩みを止め、天を仰ぐ。雲一つない空はどこまでも蒼く、白い太陽は直視出来ないほど眩しかった。珍しいこともあるものだ。ここ十数年そんな日はなかった。長らくまともに見ていなかった晴天はあまりに明るく、それが何故だかあの世の世界を連想させた。まさか、娘はもう…不吉な予感に囚われ、母親は視線を空から地上へと戻す。すると、探していたものがあっさり見付かった。 娘は、そこで一瞬前の母親のように空を見上げていた。母親は娘の元に駆け寄ろうとして、思いとどまった。娘の手に、麦を刈り取るのに使う鎌が光っているのに気付いたからだ。林檎畑では勿論そんなものはいらない。なら、それをなんのために使おうと言うのか。答えは自ずと見えてくる。
母親が声を上げようとしたが、それより先に娘が口を開いた。
「母さんなら見付けてくれると思ってた。」
娘はおもむろに母親の方に顔を向けた。口元に微かな笑みが浮かんでいた。

「バカな事はおよし。どんな理由があろうと死ぬことは許さないよ。」 力強い言葉と裏腹に、母親の声は震えていた。それでも母親は続ける。

「お前の伴侶なら、私達がいつか見つけてあげる。だからその鎌をお寄越し。」 母親の説得に耳を貸さず、娘は鎌を手放そうとはしなかった。身動きもしなかった。ただ、彼女は元より薄い血の気が完全に引くほど恐れを表している母親とは対照的なたおやかな笑みを浮かべているだけなのだ。

「どっちにしろそんなに長く生きられないのに死ぬことは許さないなんて、母さんらしいね。私はもう全部知ってるのに。私達以外の人間なんてここにはいないことも、母さん父さんがいなくなったあと私独りになっちゃうことも。」

娘が更に話し出した。
「何を言ってるの、父さんに冷たくされたくらいで。父さんがお前の物でなくても、お前にならきっと…」 母親の言葉を娘は遮った。
「そんな事じゃないの。確かにそれがきっかけだった。でも、こうなることは解っていた。父さんは母さんの物だし、母さんは父さんの物だって。私が知りたいのは…どうして私を産んだの?」
甘い香りの立ち込める、明るい秋の林檎畑を気味の悪いほどの静寂が包み込む。二人の女の間を、切り裂くような冷たい風が吹く。
…それだけは、聞かれたくなかった。母親は何も言えずにただ立ち尽くしていた。私達二人の自分勝手な愛情が、孤独に抗しきれなかった弱い心が、この娘を産んだ。産んで、不幸にした。でも、私達はこの娘を愛していた。持てる全てでこの娘を育てた。それは、偽り無い。酷いことをしたのはわかっている。それでも…

「ううん、それもわかってる。出逢ってしまえば抗えないのも、父さんも母さんも、どれだけ寂しかったのかも…それと私が、どれだけ愛されていたのかも。でも私も、二人の事が大好きなのよ。愛しているの。私の両親として。一緒に生きるたった二人の人間として。だから、私も独りは嫌。…たった独り残されるのは、私も嫌。誰かと出逢えたとして、また私と同じような子供を作るのは嫌。」
母親は娘の言葉を黙って聞いていた。娘が今からしようと思っている事が何なのか、わかってしまった。例えそれがどんな事でも、娘の言うことを無視するなど出来ようか?その向こうに何が待ち受けているか予想がついていても?あんなに望んだ小さな家族の幸せが、今崩壊しようとしていても?答えは、ノーだ。私は、大事な人だけみんな消えて、独りだけ生き残る恐怖を知っている。娘だって同じことだろう。
母親は娘の目を真っ直ぐみた。娘が動いた。鎌が太陽を受けて煌めく。母親は微動だにしなかった。苦痛や血に対する恐怖はなかった。それが娘の望みなら、罪に対する罰なら、受け入れるまで…母親は目を閉じた。そして命が、引かれる音。
父親が、畑の間の細い道を、一目散に駆けている。目指しているのは、林檎畑だ。嫌な予感がする。先程妻が娘を捜すと言って出ていってから、時間はまだそんなに経っていない。しかし、この胸を支配するざわざわした感覚は何だろう?父親は果実がたわわに実る林檎の木の茂みをかき分け進んだ。暫くしたところで、彼は、見付けた。全身を朱に染めた最愛の妻と、娘を…
硝子玉のような二人の眼は、虚ろに見開かれたままだった。男は二人にそっと降れてみた。まだ温かく、生の名残がそこにはあった。しかし、それは間もなく消えてしまうだろう。二人の魂とともに。 私が娘を撥ね付けたのがいけなかったのか。娘が実の父親である私に恋したのが悪かったのか。娘を生まれさせたのがいけなかったのか。それとも…それとも、私が妻を愛したのが、そもそもの間違いだったのか。手にまとわりつく、最も大切な者たちの流した血。彼のなかに、剰りに哀しい幸福の記憶が、浮かんでは消えて行く。

「ああ、ああああ…」 彼の慟哭を聴くものは、今となっては誰もいない。世界に、広すぎる世界に、男唯独りだけ。
それでも全てを否定するなど、出来ない。娘を憎むことなど、出来ない。妻を恨むことなど、出来ない…
男は、娘が握りしめている拳を、ゆっくり開いた。そして娘と妻の命を奪った刃をその手に取る。小さな鎌だ。こんなものでも人を殺めることが出来るのか。この命も、その刃にかけてやろう。すぐに、私も傍に行く。 男の手は迷わなかった。刃は真っ直ぐ、男の喉を切り裂いた。
この上もなく青い空。風に靡く緑の木々。紅く輝く林檎の実。荒れ果てた世界の真ん中、ここだけは天国のように美しかった。ここに、一つの家族が重なりあって倒れている。彼らは既に、憎悪も悲哀も忘れ、静かに眠っている。やがてその肉体も、土に還り草に還り、風に還っていくのだろう。
こうして3は、0になった。
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Posted at 01:22 | マダム沌夕 | COM(3) | TB(0) |
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